総合ブログです。
更新履歴・お知らせ・あとがき・萌え語り・小ネタなど。よろずジャンル・ネタバレあります。
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ようやく更新の仕方を思い出したので久々にサイトいじりなどをしました。
オフも一年半ぶりぐらいに更新……どんだけなんだ!w
ついでに小ネタログ置き場と落乱部屋も設置しましたー。更新したいです。
もうパラレルネタが乱舞しまくってて自分のこのパラレルに対する情熱はどっから来るのかと疑問に思うぐらいです。当然原作の彼らが至上な訳ですがこう、シチュ萌えが。成長も好きです。三年後がかーなーりー美味しい感じですよね。やりたい放題六年(現三年)に上級生になった四年(現一年)、なんでも出来そうです。卒業生も絡んできてくれると尚美味しい。
続きは、重い話になるので。小咄系ではないです。どこかに書き出さないと脳内から出て行かない、この書かなければ生きていけないという感覚は、何なのでしょうか。
オフも一年半ぶりぐらいに更新……どんだけなんだ!w
ついでに小ネタログ置き場と落乱部屋も設置しましたー。更新したいです。
もうパラレルネタが乱舞しまくってて自分のこのパラレルに対する情熱はどっから来るのかと疑問に思うぐらいです。当然原作の彼らが至上な訳ですがこう、シチュ萌えが。成長も好きです。三年後がかーなーりー美味しい感じですよね。やりたい放題六年(現三年)に上級生になった四年(現一年)、なんでも出来そうです。卒業生も絡んできてくれると尚美味しい。
続きは、重い話になるので。小咄系ではないです。どこかに書き出さないと脳内から出て行かない、この書かなければ生きていけないという感覚は、何なのでしょうか。
先日、八月二十八日、我が家の犬が永眠しました。
シェットランドシープドッグ、15年近くも生きた、犬でした。
私の周りで生き物が亡くなるのは冬ばかりで、今年の冬も散々危ないんじゃないかと思って過ごしてきたので、冬を乗り切ったところで油断していたという気持ちもあります。段々散歩にも行きたがらなくなって、何日か前に、連れ出したはいいけれど遠くに行くのをいやがって家の周辺ばかり二十分ほどぐるぐる回ったのが、私が行った最後の散歩になりました。
冬前に目が見えなくなって、どんよりと濁った目になって、それが死体になった後の目よりも白く虚ろだったのを、鮮明に覚えています。
老衰なのだと思います。大病もせず、私よりもかなり甘かった家族たちからしょっちゅうご飯のおこぼれをもらって、元気に散歩に行って、好きなように生きていたと、思います。
いなくなってからまだ少しなので、不思議な感覚です。
気配があります。少しでも涼しいところに横たわろうと、廊下の床が自分の体温で暖まるたびに移動していたので、人間が歩行する時は彼をまたいで通ったものでした。狭い廊下を歩く時、もういないのに、またぐように通ってしまうのです。歩いた時に爪がフローリングにこすれて出るチャッチャ、という音がまだ聞こえます。数年前にはもう二階に階段を上がることはしなくなったので自室では感じませんが、どうにも、あの体が横たわっていないことが、違和感でしかありません。
私の大好きだったあの子がいなくなってからも、もうかなりの時間が経ちました。未だに、ドアの外から鳴き声が聞こえてくるようで、謎のひっかき傷なんかもたまに発生します。一昨日など、多分これはその前に蚊に刺された後を私が掻いた跡なのでしょうが、その日の朝には何とも無かったのに手首に猫のひっかき傷のようなものができていて、あの子が慰めてくれたのかしら、などと思いました。
ああ、まったく、動物を飼うと言うことは、死を共に歩むことで、ああ、本当に、
喪失がこんなにかなしいなら、もう他の子とは出会いたくないものだと、数年前に決めました。
本当に、もう耐えられそうになく、出来ることなら次は自分の番が来て欲しいものですが、それはあまりにも不孝に過ぎるでしょう。
それでも、こんな時に、心底楽しめる趣味があったことは救いです。
だって妄想をしている間は悲しいことを考えなくて済むのですから。
翌日には嫌でも笑ってなきゃならない、だって私は生きているのだから、そんな時に好きな子たちのことを考えているだけで頭がいっぱいになるのだから凄いものです。
書かなくちゃね。書くことが多分、いつでも私を救ってくれる。
まあ、締め切り前にはもう書けねーよ!などと思ったりもしますが。
悲しくないわけじゃないけど、無理して笑っちゃいけないわけでもないですし。いつも通りに、ぼんやりと、生きましょうか。
「なんだい、もう来たのかい?」
あの子が多分、笑って口にする。
「遅いぐらいだよ、僕はがんばったよ」
それこそ子供の頃に鼻面をはたかれた時のように、拗ねた顔をして答えるだろう。
そこに、二匹分のおやつを持って、大好きな人がやってくる。
そんな野原に、いつか、私も、いけるだろうか。
シェットランドシープドッグ、15年近くも生きた、犬でした。
私の周りで生き物が亡くなるのは冬ばかりで、今年の冬も散々危ないんじゃないかと思って過ごしてきたので、冬を乗り切ったところで油断していたという気持ちもあります。段々散歩にも行きたがらなくなって、何日か前に、連れ出したはいいけれど遠くに行くのをいやがって家の周辺ばかり二十分ほどぐるぐる回ったのが、私が行った最後の散歩になりました。
冬前に目が見えなくなって、どんよりと濁った目になって、それが死体になった後の目よりも白く虚ろだったのを、鮮明に覚えています。
老衰なのだと思います。大病もせず、私よりもかなり甘かった家族たちからしょっちゅうご飯のおこぼれをもらって、元気に散歩に行って、好きなように生きていたと、思います。
いなくなってからまだ少しなので、不思議な感覚です。
気配があります。少しでも涼しいところに横たわろうと、廊下の床が自分の体温で暖まるたびに移動していたので、人間が歩行する時は彼をまたいで通ったものでした。狭い廊下を歩く時、もういないのに、またぐように通ってしまうのです。歩いた時に爪がフローリングにこすれて出るチャッチャ、という音がまだ聞こえます。数年前にはもう二階に階段を上がることはしなくなったので自室では感じませんが、どうにも、あの体が横たわっていないことが、違和感でしかありません。
私の大好きだったあの子がいなくなってからも、もうかなりの時間が経ちました。未だに、ドアの外から鳴き声が聞こえてくるようで、謎のひっかき傷なんかもたまに発生します。一昨日など、多分これはその前に蚊に刺された後を私が掻いた跡なのでしょうが、その日の朝には何とも無かったのに手首に猫のひっかき傷のようなものができていて、あの子が慰めてくれたのかしら、などと思いました。
ああ、まったく、動物を飼うと言うことは、死を共に歩むことで、ああ、本当に、
喪失がこんなにかなしいなら、もう他の子とは出会いたくないものだと、数年前に決めました。
本当に、もう耐えられそうになく、出来ることなら次は自分の番が来て欲しいものですが、それはあまりにも不孝に過ぎるでしょう。
それでも、こんな時に、心底楽しめる趣味があったことは救いです。
だって妄想をしている間は悲しいことを考えなくて済むのですから。
翌日には嫌でも笑ってなきゃならない、だって私は生きているのだから、そんな時に好きな子たちのことを考えているだけで頭がいっぱいになるのだから凄いものです。
書かなくちゃね。書くことが多分、いつでも私を救ってくれる。
まあ、締め切り前にはもう書けねーよ!などと思ったりもしますが。
悲しくないわけじゃないけど、無理して笑っちゃいけないわけでもないですし。いつも通りに、ぼんやりと、生きましょうか。
「なんだい、もう来たのかい?」
あの子が多分、笑って口にする。
「遅いぐらいだよ、僕はがんばったよ」
それこそ子供の頃に鼻面をはたかれた時のように、拗ねた顔をして答えるだろう。
そこに、二匹分のおやつを持って、大好きな人がやってくる。
そんな野原に、いつか、私も、いけるだろうか。
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